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東日本大震災発生から3年過ぎて!

東日本大震災発生から3年が過ぎて!
 
私は、3月11日に旭市で行われた東日本大震災三周年千葉県・旭市合同追悼式に参列させていただきましたが、参列者は大人ばかりで小中学生は合唱団の皆さんだけでした。
 
子ども達も「家や家族、思い出の品や大切なもの」を失っていることは同じで、平日だから子ども達は参列させなかったのか、必要ないと感じて参列させなかったのか分かりませんが、風化させることなく後世に伝えるため、大震災が発生した現実を受け入れて、個人の記憶に残すためにも子ども達が参列すべきと感じてきました。
 
3年前の3月11日午後2時46分に東北地方を中心にマグニチュード9.0の地震が東日本を襲いました。
 
あの地震によって、津波が東北3県(岩手県・宮城県・福島県)と関東2県(茨城県・千葉県)にも押し寄せて膨大な災害を被りました。
 
さらに、福島県では原発の事故も重なり、原発から30キロ県内に住んでいた方達は、目の前の我が家に放射能汚染によって、帰宅できなくなりました。
 
このほか、津波によって、家が流され他県に移住された方、居住可能な地域に移転された方、仮設住宅で国が進める復興事業が進むことを待っている方、一向に進まない復興事業に苛立ちを感じている方、国・県の関係者にボランティア活動を通じて被災者の声を伝えながら奮闘している方などがおります。
 
また、被災者は移住を望む方、住みなれた街を離れたくない方、行方不明者の発見を優先すべきと考える方と意見が分かれているとお聞きしました。
 
どの意見が正しいとは言えませんが、国・県の関係者、ボランティアの皆様をはじめ、被災者の心を癒すために何ができるかを考えていただきたいと思います。
 
また、震災で心も体も傷ついた方が懸命に前を向いて進もうとしている方がたくさんいることを忘れないで欲しいと思います。
 
そして今、自分に出来る支援を続けていくことが、大切ではないかと感じています。
 
この思いは、被災地へ行って自分の目で見て・身体で感じながら、被災者の話を聴いていただくと理解できると思います。
 
そして実際の被災地の景観と自分が知り得た事を自分の家族や地域の方、また、職場などで語り合うことも復興につながっていくものと思います。
 
私は、千葉県に生まれ育ち50年が過ぎましたが、今回の地震は過去に経験をしたことのない揺れで恐怖を感じましたが、東北地方の方々はマグニチュード9.0の地震に加え、10mを超える津波を体験され、津波によって家や車、人やがれきが流されていく現実を目の前にし、我が家を無くし、家族や親友を亡くし、思い出の品・大切にしていたものを無くし、職場も無くなり、ふるさとの面影も無くし生きる気力も失い掛けそうになり、辛い日々を過ごされたことと思います。
 
また、仮設住宅に入居できても、狭い部屋、薄い壁、寒さに耐え、性格の合わない隣人と暮らすなど、苦しく辛い生活はいまだに続き、3年たった今は、仮設住宅も新たに雨漏りやストレスによる人間関係などの問題も起きて苦労されていると伺いました。
 
初めて東北の被災地を訪れた時から宮城県塩釜市のボランティア団体の會澤代表に案内され、当時の様子や現状の説明を受けつつ、自分の目で現地を見て、がれきの山、遺骨が流され倒れたままの墓石、廃校となった学校、一面の空き地に雑草が生え、その隙間から住宅の基礎が見えた瞬間に、ここは巨大な住宅地だったことが分かりました。
 
昨年訪れた時には、がれきが片付いても復興とは呼べない町並み、遺骨はどうされたのか墓石が修復された墓地、巨大な住宅地は基礎を残したままの風景、廃校となった学校関連施設が1,000校あるなかで、復興に向けた方針が決まらない地域、これらのことを知り得たのは、ボランティアの説明により、気づいたことが多くあり、単独で訪れても気がつかなかったと思います。
 
なお、津波によって、多くの生徒さんと先生が無くなった小学校を訪れたときに、何とも言えない雰囲気と悲しさを感じ、お線香を手向けた時に隣接するキノコ栽培をしていた山に登らなかったのか、なぜ、登った生徒を下したのか疑問です。
 
一方、釜石市では、釡石の奇跡と呼ばれる小中学生達の行動が、話題になっていますが、普段からの防災教育が生徒さん達に浸透されていた結果だと思います。
 
それは、ムダ脚に終わってもいいたとえ100回でも200回でも真っ先に逃げてみせることは、「津波が来なかったら、自分だけ逃げると恥ずかしい」という思いを捨て、「率先避難者たれ」の教えにより、実際に我先にと逃げた中学生たちの姿が、小学生や大人たちを避難へと促すことができ、多くの方々の生存に結びついたと言われています。
 
また、釜石の小学生たちは、避難訓練も全力疾走で取り組んでいたそうです。それは、「緊急時に、訓練以上の行動は取れないから」という教えで、「どんな時でも最善を尽くす」といった行動が驚異的な避難率につながったと言われています。
 
さらに、「津波はここまで来たことなどないから大丈夫だ」と避難を渋る祖父母に対して、女の子は泣きながら避難を訴えることができたのも、「想定にとらわれるな」という教えにより、防災トレーニングを積んでいた女の子によって救われたものです。
 
このように防災教育が生徒さん達に浸透できていたことが、学校にいた2,921人の小中学生が無事に避難できて称賛されましたが、決して奇跡ではなく備えと意識が生み出した成果であると言われています。
 
普段の防災意識の違いで明暗が分かれてしまう結果になりましたが、今後は、日頃の避難訓練も認識を変えて全力で行い、最低限避難所がどこにあるのか確認しておく必要があると実感しました。
 
なお、避難場所といえば、学校や公民館などが指定されますが、今回の大震災でも学校に避難した結果、多くの尊い命が奪われてしまったところもありました。
 
地元の自治体では、この経験を生かして震度の大きさによって、避難場所を変える方針を打ち出し、3ランクの避難所を設けて震度の大きさなどで避難場所を変える防災計画書を作成していると伺いました。
 
避難場所の設け方については、他の都道府県でも参考になるのではないでしょうか。
 
最後に、大震災を経験してコンビニになどから食料品が無くなったこと、ガソリンの給油制限がされたことなどから、人は誰かに支えられ、守られて生きていることを強く感じました。
 
また、被災地の方々は痛切に感じていると思います。
 
そんな方々が現在も以前の生活に戻れず、仮設住宅で互いに支え・守られながら前を向いて頑張っていることを忘れることなく、自分に出来る支援を続けていきたいと思います。
 
 
 
 
 

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